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祖納の歴史

祖納は、西表島で最も古い集落と言われて古代より西表島の西部の中心として栄えてきた集落です。

島の9割がジャングルに覆われ、面積が広いわりに人が住むのにあまり適さない地形。そして、長年人々を苦しめてきたマラリア。さらには、地震や津波などの自然災害により、人間の定住を拒むかのように存在してきた西表島。

今あるほとんどの集落は、戦後マラリアが撲滅してから形成されています。

その中で、500年以上も途切れることなく存続し、今なお古くから伝わる文化や風習を守り、祖先の築いてきた伝統を継承し続ける祖納集落は数少ない例外。

そんな集落の歴史を、ほんの一部ではありますが、ここでご紹介いたします。

集落の形成

西表島に人が住みだしたのはどれくらい前からなのか。これについては正確に残る記述は存在していません。

しかし、地層調査や集落跡などの調査により、祖納をはじめ、いくつかの地域では少なくとも14世紀頃には人々が生活していたことが分かっているそう。

人々は集落を築き共同生活はじめ、やがてそれらをまとめる按司(あじ、または、あんじ)という支配者が現れました。この時代の按司とは、領主のような役割を果たす豪族層。つまり、地域のリーダー的存在。

その中で、祖納を治めていた大竹祖納堂儀佐(おおたけそないどうぎさ)という按司が西表島で最初に歴史に名を残します。祖納を初めて村立てしたのが彼であると伝えられています。

大竹祖納堂儀佐(おおたけそないどうぎさ)は14世紀~15世紀頃に大陸方面より鉄板などの鉄製品を持ちこみ、鍛冶を始め農具をつくり、農業を盛んにした人物。

今でも「英雄」として敬われ、かつては祖納で行われる豊年祭等のすべての神行事は、彼を祀った大竹御嶽(うたき)を中心に催されていました。

当時は、八重山諸島の島々や島内のほかの集落同士との争いも少なく、穏やかな日々が続いていたそう。

八重山諸島の群雄割拠

しかし、15世紀後半になると、八重山諸島の各所に、より大きな勢力をもち武力で村落を支配しようとする按司たちが現れるようになります。こうして、単なる西表島の一集落ではなく、八重山の島間で争いが行われる群雄割拠の時代に突入。互いに交易をおこないながらも激しい覇権争いを展開していました。

祖納では、慶来慶田城用緒(けらいけだぐすくようちょ)という実力のある按司が登場します。

このころ、次第に地方統治を強化し始めた琉球政府は、八重山諸島に遠征軍を送り込み勢力拡大を図ります。

石垣の按司・遠弥計赤蜂(おやけあかはち)は、それに反旗を翻し年貢を拒否。真っ向から琉球王府と対立し1500年、「オヤケアカハチの乱」という戦争が勃発。

このとき、遠弥計赤蜂(おやけあかはち)とは対照的に、服属して琉球王国の一部になることを選んだのが、祖納の慶来慶田城用緒(けらいけだぐすくようちょ)。琉球側につきたいそう活躍したと言われています。

その功績により、琉球王府から「西表首里大屋子(いりおもてしゅりうふやく)」という地方役人のエリート的な官職を与えられました。

祖納には彼の遺徳と功績を称える「慶来慶田城翁大宗の碑」があり、また、彼の使っていた屋敷跡も残されています。

琉球政府・薩摩藩による支配

「オヤケアカハチの乱」からほどなくして、西表島は琉球王府の支配下に入ります。

1609年になると、琉球王国が薩摩藩に服従し、その支配下に。そして、その後も徴税代理人となり先島諸島からの年貢を徴収。1637年には、世に名高い悪税「人頭税」を施行します。これは、作物の収穫状況に関係なく、人の数の頭割で税を徴収されるというもの。

西表島の属する八重山諸島は、琉球王府・薩摩藩の圧政に加え、現地支配層による二重の従属を強いられる過酷な時代に突入します。人頭税による重い年貢、災害や飢饉により、人々の生活はどんどん苦しくなっていきました。

さらに、そこに追い打ちをかけたのが、島を震撼させる恐ろしい病の発生。そう、マラリアです。

1961年の撲滅まで450年にわたって島の人々を大いに苦しめた感染症マラリアが猛威をふるい、人口は激減。琉球王府が、未開拓の西表島に他島から人々を強制移住させる「寄人政策」を実施したものの、人を拒むかのような過酷な環境下において集落は成り立たず、移住と廃村を繰り返します。

しかし、そんな時代にあっても、祖納は途切れることなく集落を維持。

これは、集落をあげてのマラリア予防対策事業に加え、古集落特有の人民結束の強さが起因しているのではないかと言われています。

日本の領土に、そして戦争へ

1867年、江戸幕府から日本政府へ大政奉還。1879年、廃藩置県により琉球は沖縄県となり、西表島も日本・沖縄の一部になりました。

1941年太平洋戦争開戦。
八重山では上陸戦は行われず、西表島では他の島のように空撃も少なかったそう。しかし、1945年3月から6月にかけては、米軍の空爆、艦砲射撃が激しくなり島民を苦しめました。

終戦間近になると、米軍の上陸を危惧した日本軍が、八重山への軍事強化を行うために軍隊を派遣。それにより祖先代々の土地は当時の陸軍省に強制接収されてしまいます。祖納半島の一部などは、今なお返還されないままになっており、早急な対応が求められています。

米国統治と新たな集落の形成

1945年、太平洋戦争の終焉とともに、沖縄の統治権は米軍へ。沖縄民政府は、まだまだ未開の地が残る西表島へ集団で開拓民を送り込みます。現在の西表島の多くの集落は、この時期から形成され始めています。

現在の祖納の姿

マラリア、強権支配、戦争、飢饉、自然災害…

時代の荒波にもまれ、嵐のような苦難が続いた西表島・祖納。それを経てなお、祖納の歴史は一度も途切れることなく、現在までも集落が続いています。自然と共生しながら生活を育み、祭りや芸能、信仰などの独自の文化を500年もの永きにわたり継承してきたのです。

20世紀半ばまでは西表島西部の中心地であった祖納。

しかし、現在は石垣島との定期航路の発着点である上原地区に交通・経済の中心が移っています。
島の知名度が少しずつ上がるにつれ、ホテルやダイビング・カヌーなどのショップも増加。観光の中心拠点としても栄えてきた上原港周辺は、今や立派な観光地。

しかし、そこから車で20分も走れば、いい意味で観光地化されていない、歴史を感じさせる静かな集落、祖納にたどり着きます。

古くから続く伝統や文化、風習。これらを今なお大切に守りながら生活を営んでいる人々の暮らしをご覧ください。